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「ごみとは何か?」人とものの関係性から考えるごみの哲学

Index

  1. なぜつぶれた空き缶を「ごみ」だと思うのか?

  2. 忘れ物は「ごみ」なのか?

  3. 美しいのに、ごみ?

  4. なぜ「なんとなく捨てられない」のか?

  5. 「思い出の品」が捨てられないのは、儚さへの抵抗?

  6. ごみのない世界に、他者は存在しない?

「ごみ」とは不思議なものです。ずっと愛用していたTシャツでも、まだまだ使える道具であっても、いらないと思った途端に心の中のごみ箱に捨てられてしまいます。その一方で、自分には不要なものでも、誰かにとって価値のあるものはたくさんあります。では、「ごみ」とは一体何なのでしょうか。

この問いかけの答えを見つけるため、砂浜に捨てられている雑貨や漂着物を拾い集めるフィールドワークを行いました。集めたものを分類してみると、「ごみである」と判別するには、ものの機能や価値、個人の価値観といったさまざまな要因が関わってくるのではないかという考えが浮かんできたのです。

そこで、哲学者の戸谷洋志さんを訪ね、砂浜で拾い集めたさまざまなものと、自宅にあった「ごみ」かどうか判断できないものを一緒に眺めながら、お話を伺いました。
ごみはいつ生まれる ? 人間にとって、ごみとは何か ? そして、それは本当にごみなのか ? 一緒に考えてみましょう。

何をごみと感じるかって人それぞれですよね。その曖昧な「ごみ」について戸谷さんと一緒に考えていきたいと思います。そもそも「ごみ」という概念を哲学的に考えてきた人っているのですか ?

戸谷

「ごみ」そのものを主要概念として哲学で論じている人は思い浮かびませんね。

一つの切り口ですが、ごみは大きく2つに分けて考えることができます。ひとつは食べ物のように放っておくと腐敗して形がなくなってしまう、いわば自然に還るもの。もうひとつはプラスチックのように自然環境下で分解されにくいもの。

後者の「自然の循環に逆らうごみ」は18世紀後半の産業革命以降に生まれた比較的新しい概念で、哲学においては主題として扱われてきませんでした。というのも、哲学の分野ではいかに自然の中に存在するものを獲得し、使用できるものにするかという「所有」や「生産」に議論の重点が置かれてきたからです。

現代の私たちが考えるごみは、前述の2種類が混ぜ合わさったもので、比較的新しい概念といえるでしょう。

なぜつぶれた空き缶を「ごみ」だと思うのか?

ぺしゃんこに潰れた缶ビールの写真。全体的に汚れていて、劣化して穴も開いている。

今回の取材のために、海岸に落ちている「ごみ」と思われるものを拾い集めてきました。これは砂浜に落ちていた空き缶。誰がどう見てもごみだと思うようなものですが、なぜ、大半の人は、疑いもなく「ごみ」だと認識してしまうのでしょうか ?

戸谷

この空き缶はビールを飲むための道具ですよね。缶そのものに価値があるのではなく、ビールを飲むことができる機能に価値がある。つまりビールを飲むという行為や、喉を潤すという目的とのネットワークの中で役割を果たせるかどうかで、ごみかどうかを判断することができるでしょう。

この空き缶は機能をなくし、ネットワークから外れているので、役に立たないものになっています。だから、この状態の缶はごみだといえるんじゃないでしょうか。

たしかに、本来の機能を失っていますね。

戸谷

でも、これが本当にネットワークから外れているかって、実はわからないんですよ。もしかしたら海にやってきた人が何らかの目印として缶を置いていたのかもしれません。そうだとしたらこの缶は道具として別の機能と目的を果たしているので、ごみではないですよね。

うーん、たしかに。そう考えると、見た目だけで判断することはできませんね。

戸谷

一方で、この缶を捨てた人は、これを見た人が「これはごみだ」と判断することを見越してつぶした可能性もあります。

どういうことでしょう ?

戸谷

この缶を捨てるだけならば、わざわざつぶす必要はないですよね。にもかかわらず「つぶす」という行為をとり、機能を失わせ、社会の中でごみとして認められやすい状態に変化させている。

言うなれば、ごみらしい姿にすることである種の刻印をつけ、捨てることを正当化させていると考えることもできる。機能が損なわれているからごみになっているのではなく、ごみにするために機能を損なわせているということです。

なるほど、たしかに紙ごみを捨てる前にくしゃくしゃにつぶすことがありますが、そうした行為も同様かもしれません。

忘れ物は「ごみ」なのか?

片方だけのサンダルの写真。本体は白の革製に見え全体的にひび割れを起こしている。トング部分は黒。
左右揃った深い緑色の便所サンダル。全体的にかすかに汚れている。

では、このような2種類のサンダルのケースはどうでしょう ?
同じサンダルでも、片方だけのものを見れば、直感的に「ごみ」だと感じるのではないでしょうか。でも、左右がそろっている対のサンダルが揃っているものの場合は見れば、もしかして「忘れ物」なんじゃないかという気がして、「これはごみなのだろうか ? 」と迷うのではないかと思うのです。機能を持っているかで判断すると、片方だけのものは「ごみ」、左右がそろっているものは「ごみ」ではないということでしょうか ?

戸谷

ごみって、もともとは誰かの所有物だったものですよね。これらのサンダルで問題なのは、所有者にとってまだ必要なものなのか、それとももう不要になったものなのかという点です。つまり、このサンダルが砂浜に置き去りにされた状態でもなお所有者に求められ、ネットワークの一部を成しているかが判断の分かれ道になるということです。

海辺で実際に所有者が所有権を主張するかどうかはさておき、あくまで思考実験という前提に立ちましょう。空き缶と同様に、ネットワークの一部であればごみではなく、ネットワークから外れてしまえばごみである、ということですか ?

戸谷

その通りです。ただ、忘れ物であったとして、このサンダルがなくても生活が成り立っていたらどうでしょう。所有者はサンダルを忘れたことすらも忘れてしまっていて、生活を送っている。でも、サンダルを見て「あ ! そういえばサンダルのこと忘れてた。なんか不便だと思っていたんだよね」と感じたら、この場合はごみではありませんよね。

一方、サンダルなしの生活に満足していて、このサンダルを見ても「別になくてもよかったな」と感じるのであれば、置き忘れた時点でこのサンダルはごみだった可能性があります。

たしかに、持ち主の道具のネットワークからそもそも外れていたということですからね。

戸谷

何らかの形で所有権が放棄され、誰のものでもないものになると「ごみ」になる可能性は高いかもしれませんね。もともと自然に存在したものとは違い、ごみは、もともと誰かの所有物だったというプロセスがあります。逆にいえば道具をごみにするということは、道具にある種の公共性をもたらすことなのかもしれません。

「公共性」ということで言えば、実際のごみは、たいていの場合、廃棄物として行政が処理することになります。そのコストは税金で負担されるでしょうから、どこまでのものを「ごみ」と見なすかという論点は、社会の中のコスト分担の問題とも絡んで、法律的には違った側面が出てくるかもしれませんね。本人が有用だと言い張っても、客観的にごみという場面もあるだろうし、行政がごみだと認識しても本人の主観ではそうではない、といったケースも出てくるでしょうから。

美しいのに、ごみ?

ボロボロになった、薄茶色の2本の小さな流木の写真。Yの字上に置かれている。

次に、自然物について伺わせてください。この流木はどうでしょうか ? 流木のような「機能のない自然物」を売っている人もいますよね。

戸谷

拾った流木は元来誰かの所有物だったわけではないですよね。人間のネットワークではなく、自然界のネットワークに置かれ続けていた存在です。そう考えると、流木はそもそも人間に対してではなく、地球や環境に対して機能を持っている。そう考えるとごみではないですよね。

ただ、単なる鉱物である宝石が人間世界でものすごい価値を持つように、自然物が人間世界のネットワークに置かれることで価値が発生するということはあります。

どうしたら、もともと自然物だった流木に価値が生まれるのでしょう ?

戸谷

流木自体に価値があるかとは別に、流木に労力をかけることで価値が生まれる場合があります。ジョン・ロックという哲学者は、所有や価値の生まれる源泉は人間の労働力にあると説いているんですよ。

労働力、ですか。

戸谷

たとえば、りんごをもぎ取るとか、流木を拾い上げるとか、ロックの言葉を借りると「労働力が自然物と合わさる」ことで、自然物が所有物になり、価値を持つようになる。

だから、流木を価値のあるものとして人々が受け入れることができるのは、そこに人間の労働が関与しているからだと思います。

逆に言うと、人間が自然物に勝手に価値をつけているということですよね。一度価値をつけたとしても「価値がなくなった」と感じたならば、流木もごみになるということですか ?

戸谷

そうですね。流木は人間の築いたネットワークの中に置かれると、自然界での役割を失います。一度価値をつけたものでも、結果的にごみになるということは考えられるでしょう。そう考えると、流木をごみにしているのはあくまでも人間だということになりますね。

濃い茶色の流木の写真。半円のような形で全体的にごつごつしていて部分的にトゲのように見える箇所もある。 先端は細くなっている。
楕円体の石に薄いひし形のような石が立てかけられている写真。どちらも薄いグレー色。

こちらも流木ですが、どこか力強い雰囲気があるなと感じて拾ってしまいました。そして次の石の組み合わせは、形が美しいなと。海に落ちているものに美しさを感じて拾い集めている人もいますが、美しいと感じることと、ごみと感じるかどうかには関連があるのでしょうか ?

戸谷

難しい質問ですね。使用可能な道具をごみの対極と考えるならば、必ずしも美とは関係しないと思います。つまり「美しいごみ」ということがありえる。たとえば、ごみの日にみんなが出したごみ袋の積み方を美しく感じたとしても、それはごみですよね。

先ほどの「ごみ」は主観的な判断だけで決まるのか、行政が勝手にごみと決めていいのか、といった論点とも関連しますね。

戸谷

ただ、その美しさを別の目的に使用できるのであれば、ごみじゃない可能性はあります。

美しさを別の目的に使用する。それってどういうことですか ?

戸谷

流木を誰かがぽいっと捨てたのならばその時点でごみとなり、捨てられた流木が誰かにとって美しく映っても依然としてごみだと思うんです。

ただ、これを拾い上げて「美しいから他のものと交換できる」とか「美しいから部屋に飾ったら気分が良くなるだろう」などと何らかの目的を持って使用した瞬間に、それはごみではなくなります。

さらに、流木を拾い、夕陽にかざしてその陰影を眺めるという“労働”を行ったならば自分の所有物だと思うかもしれないですね。つまり、流木を用いて陰影を眺めるための労働のように、美しいものや体験を獲得するために働きかけることで、それがごみではなくなる可能性はありますね。

なぜ「なんとなく捨てられない」のか?

iPhoneの箱と蓋の写真。中身は空。状態は綺麗。

ここからは、家の中にあるものを取り上げてみたいと思います。砂浜で拾ったものとは違って、所有物ではあるのですが、捨てていないだけでいらないものってたくさんあると思ったんです。
これはスマホの空き箱なのですが、なんとなく捨てられなくて保管していたものです。この「なんとなく捨てられない」という気持ちが生まれるのはなぜなのでしょう ?

戸谷

箱や袋って特別なんですよ。ガストン・バシュラールというフランスの思想家が、「小箱は外と内を隔てることによって、内部に価値を生み出す機能を持っている」と説いています。

たとえば、何かを箱に入れたり包装したりするだけで価値が生まれたように感じられませんか。つまり、中身ではなく、箱が何らかの価値を生み出している。だから、この箱を捨ててしまうと、箱の中にあったものの価値まで相対的にやや減ってしまう気がするため捨てられないんじゃないでしょうか。また、箱とは関係なく、ものを捨てられないという傾向を持った人もいると思います。

哲学者のハンナ・アーレントは「現代社会において人間は所有物をなんでもかんでもお金に換算して、ものを交換価値で捉えているけど、もともと所有物ってそういうものじゃなかったよね ? 」という話をしているんです。

インターネットで私物を売ることが当たり前になってきていますが、ものを市場において交換することで実現する価値として認識する傾向は強くなっていそうですね。

戸谷

そうですね。アーレントは「私が生まれてくる前から存在していて、なおかつ私が死んだあともこの世界に残ることを期待できるものが所有物や財産なんだ」と言っています。スマホは生活の循環の中でいつかは機能を失う。つまり消えていくものです。一方、たとえば家や宝石といったものは自分が生まれてくる前から存在していて、私が死んだあともこの世界に残り続けていくという期待が持てますよね。

人間は誰しもいつかこの世から去っていく儚い存在です。でも、所有物はその儚さに抵抗するもの。いらなくなったからすぐ捨てるということを繰り返すのは、その抵抗力を失っているともいえる。自分の所有物を簡単には手放すことができないのは、自分のある種の儚さに抵抗したいという気持ちがどこかにあるからだと思います。

「思い出の品」が捨てられないのは、儚さへの抵抗?

5本の虹色のろうそくの写真。そのうち数本の先端部分から蝋が垂れて固まっている。

そういうことであれば、このロウソクはたしかに儚さに抵抗するために残しているものかもしれません。
これは5歳を迎えた息子の誕生日にケーキに飾って使用したもので、捨てられずに取ってあります。思い出の詰まったものはなかなか捨てられずにいるのですが、持ち主の個人的な思い出や感情と「もの」との間にはどんな関係があるのでしょう ?

戸谷

大量生産・大量消費が当たり前の現代社会において、人間は急速なライフスタイルを強いられ続けていますよね。今現在使っているものさえも、間もなくごみになる。そして、それがごみになったら新しいものを手に取り、また手放す。つまり、とても儚い循環の中にいるんです。

ただ、ひとりの人間は循環するものではなくて、はじまりから終わりへと向かう物語を生きている。つまり、ものの循環が「円環」だとすると、人生は「直線」なんです。

そして、人間は絶え間ない「ものの循環」にさらされながらも、その循環の中で、抵抗するように「直線的な人生」を記録したいと願う。お子さんの5歳の誕生日は、二度と繰り返さない。二度と繰り返されない時間を積み重ねながら人間は生きていくのです。

このロウソクは、絶え間なく循環していく生活の中でお子さんの人生の物語を記録するために残されているものですよね。私は、それはごみではないと思います。

ごみのない世界に、他者は存在しない?

お話を伺って、「ごみとは〇〇だ」と簡単には結論づけられないものだと感じました。

戸谷

今の社会は、ごみがまったく存在しない都市空間を理想としているようにも感じられます。私たちが思うがままに世界を設計できるデジタルツイン(デジタル上で複製された空間)やメタバース(インターネット上の仮想空間)には、ごみが基本的に存在しないんですよ。現実世界には普通にごみがあるにもかかわらず、自分たちがつくり出す仮想世界からはごみを排除しているのです。

僕は、ごみが存在しない空間にはリアリティは感じられないと思います。道具のネットワークから外れるとごみになるという話をしましたが、これはマルティン・ハイデッガーという哲学者の考え方なんです。ハイデッガーは、「世界は道具の連関で成り立っていて、正常に機能していると道具の存在を意識できない」と言っています。

どういうことでしょう ?

戸谷

たとえば、ペンで何かを書いている時にペンの存在は意識しませんよね。でも、ペンが急に書けなくなったら、そこではじめて「あれ ? 」と、その存在を意識する。つまり、何かが機能を失うことで、道具がどんなネットワークに置かれているかに気づく場合があります。

ごみが存在しない世界とは、自分がどんなネットワークにいるのかを意識しにくくなる世界でもあるということですね。

戸谷

ビール缶をつぶしたごみを拾ったことで「ビールを飲んでいた誰か」の存在を感じたように、ごみも人間のネットワークの一部です。この世界には多様な人々がそれぞれのネットワークを形成しながら生きているということを、ごみを介して知ることができます。

インターネットのデジタル空間が、人間のネットワーク形成の新たな進化だとするならば、他者の存在が醸し出す痕跡やぬくもりのようなものをどう再現することができるか、ごみのような存在をいかに設定するか、という点が人間の社会性を維持する上で大事になるということかもしれませんね。ただ、リアル空間でもデジタル空間でもよすがとなる「もの」がなくなってしまうのは切ないですね。

戸谷

ごみが存在しない社会というのは、他者の存在が想像できない社会ですよね。私が育った家の近くに貝塚があるんですよ。貝塚は古来の人たちがそこで貝を食べて貝を捨てていったごみなわけですけど、ごみがあることによってここでかつて人々が生活していたということがわかるという側面もあって。しかも数万年前の人間ですよ。絶対に会話なんかできないような存在なのに、その人の存在を感じられるっていうのはある意味では奇跡的なことでもありますよね。だから、そういうものとしてのごみの価値は、使用する価値とは別のところにあるのかなとも思います。

たとえ本来の使用価値を失ったとしても、そこに他者の存在を感じられるのであれば、ごみには別の機能が生まれうるということなのかもしれませんね。

戸谷洋志(とや ひろし)さんの写真
立命館大学大学院 先端総合学術研究科准教授

戸谷洋志(とや ひろし)

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ごみについて考えるべく
哲学者の戸谷洋志さん対話を行いました。
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