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生き物はみんな、食べて出す。自然界の食と排泄に見る、「いのちの循環」の物語
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自然のサイクルは、あらゆる生き物たちの「食事と排泄の循環」です。
全ての人が、動物が、植物が、菌類が、それぞれ生きていくために食べて、出す。そのつながり合いが自然環境を保ち続けています。「食べること」はさまざまに語られるけれど、「出すこと」にフォーカスすることはなかなかありません。最も身近でありながら、なかなか語られない、いのちの循環の物語のなかに、未来につながるヒントがありました。
なぜ森には、落ち葉や死骸、排泄物が溢れないのだろう
多様な生き物が息づく森に入ったところを想像してみてください。鬱蒼とした木々に覆われ、大きく呼吸をしたくなるような爽やかな空気が流れています。私たちが普段暮らす人間の世界にはない、生き物たちのさざなみのような気配を感じます。
落ち葉に覆われ、ところどころ木の根が露出した地面を眺めながら歩いてみましょう。アスファルトのように硬くなく、ふんわりとした感触を靴の裏で知ります。裸足で歩いたら、その柔らかさをじかに感じられるでしょう。
当然のことですが、その森には清掃をする人はいません。それなのに、動物の遺骸や排泄物が山積みになっていないのはなぜでしょう。獣道が落ち葉で溢れてしまうことがないのはなぜでしょう。
あらゆる動物が毎日排泄し、いのちを落とし、葉は枯れ落ちます。人間界では人の手によって行われる、排泄物や遺骸の処理。自然界においてそれらは、微生物たちの仕事です。いえ、その捉え方は、人間を中心にした認識といえるでしょう。全ては、あらゆる生き物たちの「食事と排泄の循環」によって成されているのです。
地球の生態系は、「食べたもの」と「出したもの」のつながりで成立している
生き物は大まかに、動物、植物、菌類に分けられます。
動物といえば、ライオン、犬、鳥、そして人間。さまざまな姿形が想像できます。この多様でユニークな動物たちは、「食事」と「排泄」をワンセットにして生命活動を行っています。
生き物の世界は多様で、深海には硫化水素を取り込み、自身の体内のバクテリアによって自己循環を行うチューブワームという生き物が生息していますが、その生態は未だ詳細に明かされていません。一部の例外を除いて、全ての動物は、食べることと出すことを繰り返しながら生きています。
植物や菌類はどうでしょう。一般的に植物は排泄の機能を持たないとされますが、「食べること」と「出すこと」を広く捉え直してから考えると、彼らもまたそのサイクルに参加しているのだということがわかります。
植物は、自然界に存在するエネルギー源、すなわち日光を浴びて、空気中から取り込んだ二酸化炭素を、そして根から吸収した水を栄養として摂取して光合成を行い、糖を作り、そのときに残りカスの酸素を捨てています。すなわち、生きるために取り込むのが食事で、捨てている残りカスが排泄物です。
菌類の食べものは、植物の遺骸である枯れ木や落ち葉、そして動物の死骸や排泄物。それらを分解したあと、二酸化炭素を空気中に、無機養分を土の中に排出します。植物はそれらの菌類の排泄物を食べものとして、無機養分は根から、二酸化炭素は葉から光合成という“食事法”で取り入れます。動物は植物そのものや、植物が光合成によって排泄した酸素を取り込んでいます。
このように、すべての生きもののいのちの循環はさまざまな「食べること」と「出すこと」の複雑な絡み合いによってつながり合い、成り立っているのです。
一方、私たち人間は、現代社会において、そのサイクルから離れたところで暮らしているようです。特に、人の排泄はタブーとして扱われることが多く、公に語られることはほとんどありません。
私たちが日常的に用いる水洗トイレは、下水道に直結し、排泄物を下水処理場へ運びます。排泄物は微生物を利用した「活性汚泥法(*)」によって分解され、固形物の汚泥と、上澄みの水分に分けられます。
水分は濾過したあとで消臭消毒し、川に流します。固形物の汚泥は水を搾って燃やし、灰にしたのち、埋め立てたり、コンクリートに固めるためのセメントの原料にすることがほとんど。
これは人類の科学の進歩が生み出した、人間界の循環のプロセス。文明が人々の暮らしをクリーンにして、都市から疫病を激減させたことは言うまでもありませんが、「食べる」と「出す」のいのちの循環には直結していません。
排泄物を肥料にするのは有用なことですが、それは「人間社会をどう豊かにするか」という考え方に基づいた活用法。自然界では不可欠ないのちといのちの循環が、人間の世界では意識されていないのではないか。
そんな思いを持ちながら、森に生きる人がいます。それが、自らを糞土師と呼ぶ、伊沢正名さんです。
伊沢さんは、自然界でのいのちの循環について、「排泄」の観点で実践・研究し続けています。1970年から自然保護運動をはじめ、菌類の分解の魅力に取り憑かれ、写真家として菌類の世界を撮影してきた彼は、1973年に「屎尿(しにょう)処理場建設反対運動」のニュースを聞いて、「排泄」について思いをはせたといいます。
自然保護運動の一環で山に登っていた伊沢さんは、そこで出会うキノコに魅せられました。図鑑を買って調べると、菌類であるキノコは、枯れ木や落ち葉、動物の死骸や排泄物を分解し、土に還してくれることがわかりました。それが養分となり土が肥え、植物が育ち、そしてそれを動物が食べ、また排泄する。そこには、いのちの循環があります。
伊沢さん
菌類がいるから、動植物の死骸や排泄物が土に還って、新しいいのちとしてよみがえる。屎尿処理場建設反対運動のニュースを聞いたとき、菌類のはたらきとその問題がつながりました。それから、自分にできることはなにか ? と考えるようになったのです。
伊沢さんは、それまでの経験や知識、そして自身の生活環境を踏まえ、一つのアクションに辿り着きます。それが、動物や植物、菌類と同じように、自然環境の中に入り込み、自らが循環の一員になるということ。それはすなわち、自身の私有地である林で、毎日排泄し続ける、ということ。びっくりするようなその活動ですが、約50年間継続され、いまだに途切れていません。その間、トイレを利用した回数は数えるほど。
林に足を運び、土に埋めた排泄物を掘り返して調べることで、自らの排泄物の分解のプロセスや自然の循環について知ることができたと伊沢さんは言います。
伊沢さん
菌類がうんこを分解するということは漠然と想像していましたが、実際に調査・観察してみると、その分解過程には菌類以外にもいろいろな生き物が関わっていて、さまざまに変化していくことがわかったんです。キノコやカビだけでなく、虫や動物もそこに関わっています。林に入るたびに、自然の多様性を実感しますね。
そう話しながら、実際にその分解の過程について教えてくれました。
伊沢さん
うんこが地中で菌類によって分解されるときは、前期と後期に分かれます。前期は、腸内細菌が行う「嫌気性分解(酸素を使わない分解)」。後期は、地中のカビやキノコなどの菌類が行う「好気性分解(酸素を使う分解)」です。
生き物の排泄物が分解されていく過程を、自ら実践・調査している伊沢さん。ライフワークとして繰り返す中で、さまざまな気づきがあったと続けます。
伊沢さん
掘り返し調査をはじめた2007年当時は、分解に1ヶ月かかっていました。それが、昨年行った調査では、半月で終わっていたんです。うんこを埋め続けた15年の間に、豊富な栄養を得て微生物が元気になり、地力が上がっていたんですね。また、この調査ではさらに面白いことも発見しました。昨年秋頃に探検家の関野吉晴さんと掘り返し調査をしたところ、排泄から2ヶ月近く経っていたのにほとんど分解されていない場所があった。調べてみると、このうんこをした日の前日に風邪気味で体調を崩し、抗生物質を飲んでいたんです。
抗生物質が菌類の働きを止めてしまったのかもしれない、と伊沢さんは推測します。しかし時間が経ち、再度掘り返して調べると、その排泄物も分解されていました。分解が難しいといわれている毒物のダイオキシンでさえ、シイタケやマイタケなどのキノコが分解してしまう。それほど菌類の分解力は強いのです。また、伊沢さんの私有地の山から珍しい菌が発見されたこともありました。
伊沢さん
菌類研究者の出川洋介さんが訪れたときに採取した土から、彼がずっと探していたリンデリナという菌が発見されたのです。彼はカマドウマの腸の中から見つけた不明種の菌の研究をしていて、それを調べれば菌類の進化について発見があるかもしれないと考えていた。その不明種の菌にすごく近い性質を持っていたのがリンデリナだったんです。だからずっとリンデリナを探していたわけなんですが、今まで世界で4回しか見つかったことがない。どうしても探せなければ高いお金を出して菌株会社から買おうとしていたところ、なんとこの林で見つかったんです。その後も出川さんの調査で、この林は近くにある原生林より3倍も土壌生物相が豊かだったこともわかりました。
「おわり」と「はじまり」を結ぶ鍵は、出すことにある
自然につながり循環していく方法を実践し続ける伊沢さん。排泄とはつまり、おわりとはじまり、いのちといのちのあいだにあるもの。それはすなわち、「死」というものにつながっていきます。
伊沢さん
死体とうんこは似ています。どちらも一般的には忌み嫌われるものですが、物質としてはどちらも同じ死んだ有機物。でも、その二つをポジティブなものとして捉えてみたらどうでしょう。それらは次の生き物に、いのちを受け渡すための大切なもの。死んでもそれで終わり、ではないんです。
食べることと出すことがつながり合うように、誰かにとっていらなくなったもの、役目を終えたものは、別の誰かにとって必要なものかもしれません。「おわり」と「はじまり」がつながることではじめて、循環の環(わ)が成り立ちます。
おわりの世界に目を凝らし、死に思いをはせることは、新しいはじまりを思うことでもあります。循環の思想の真髄であり、生き物たちが折り重なる営みの鍵が、そこにあるのです。
伊沢正名(いざわ・まさな)
1950年生まれ。人間不信に陥り、仙人を目指して高校中退。1970年、自然保護運動をはじめる。75年から菌類・隠花植物専門の写真家。2006年に糞土師を名乗り、人と自然の共生社会を目指す糞土思想を広めるため、講演や執筆活動を続けている。
写真:小林茂太